高校2年の冬、音楽好きだった自分は友人に勧められるままに
ドラムのスティックを握った。
それから風景が加速して動き出してゆく。
メリーゴーランドが回りだした。
それから、本格的にドラムにのめり込んだ。
オール3で言いたいことも言えず、言いたいこともなく、
何がしたいかわからず、何もしたくなかった自分。
それまで何やっても本気になれない自分にとって、
ここまで熱中できるものに初めて出会った。
その時から動き出した「音楽で飯を喰う夢」。始めて湧き出した想い。
「安定した生活などいらない。」「自分の思いのままに自由に生きていきたい。」
遅いデビューとなった(笑)。
楽器に対する、想い、夢は膨らむばかり。
お蔭さまで、二年にわたる大学受験に見事失敗。
というかホントに行く気があったのか全く不明(笑)。
両親との約束で家を出て東京都下、西調布の宮川荘というアパートで
友人のオトコ3人の奇妙な同居生活を始める。
(お断りしておきますが、性的関心はノーマルです:笑)
ドラムで食いたいから仕事はバイト。
フリーターって言葉は僕らの世代から始まったのでは?
最初に始めたのは道路工事の警備員。
その後は京王プラザホテルのコーヒーハウス→ 深夜の現像所作業
→新宿の喫茶店
ここまでは深夜仕事。喫茶店は途中から夕方からの時間帯に変更。
一貫して夜の時間帯に仕事をするのは、昼間は楽器のトレーニングにあてたいため。
そしてその後が新宿の居酒屋(株)竹馬の浪曼房に14,5年勤務。
とにかくここのお店、従業員の仲間、社長の篤さんには本当にお世話になりました。
社長の暖かいご厚意で音楽活動に関する休みは比較的自由に頂けたし、
時給も高額、夏冬ボーナス有り、そして有休も有り。
で肝心な音楽活動はというと、
平行してドラムスクールに通っていたけれど、練習量の割には思うように上達せず。
(その同期の2名ばかしが現在もジャズ系のプロとして頑張っている。)
バンド活動では、デビューの話が1,2度あった程度。
20代はバンドも私生活も前に進みきらない、暗雲の中のような日々が続いた。
どういう訳か、結婚することもなったのは30代。
また30代はサッカーの日本代表戦の生観戦にはまりにはまった。
96年から感染、いや生観戦が始まり、97年の国内戦は殆ど、特にワールドカップフランス大会、
アジア最終予選の日本ラウンドは全戦スタンドへ足を運んだ。
当然のごとく、新婚旅行と理由をつけ、ワールドカップフランス大会、
日本代表第一戦、対アルゼンチン戦を現地ツールーズまで観戦ツアーに参加。
その後もコンスタントに競技場に足を運び続け、
02年の日韓共催のワールドカップも日本戦2試合を含む全6試合を生観戦。
・・・ まさに「アホ」である(笑)。・・・
しかし肝心な音楽は相変わらずだったけど。
35,6歳の頃、31、30、30のメンバーと出会ったバンドが一番本気になった。
みんなシャレにならない年齢なのに仕事はバイト、中には子持も。
その状況でバンドに本気なっている状況。
これには本当に熱くなれた。
このバンドでやるだけやって結果ダメならば、
ドラムを辞める覚悟を決められるくらいの熱い気持ちになれたバンドだった。
でもそれが思いもよらぬ突如の崩壊。
レコード会社&事務所向けのデモテープが満足に近い形で出来上がって、
さぁこれからって時の直後メンバー間の意見の食い違い、
そしてメンバー脱退によるバンドの突然の崩壊。
外と戦う前の内部崩壊。
どうしようもないくらいの強力な不完全燃焼感しか残らなかった。
道を見失いとりあえずスティックを一旦置いて、一年間ラテンパーカッションを学ぶ。
その間並行して、自分の生きる道、仕事について考えたがなにも思い付かない。
でも気持ちはあの不完全燃焼を抱えて納得していない。
もう一度夢を追いかける生活をしたい。
できることなら死ぬまで前向きにチャレンジしていきたい。
今度はその職、その土地に腰を据え、また根を張るような生活をしながら。
’03の1月末に職場での自分に限界を感じ、とにかく仕事変えなければと決意。
すると、ふとある言葉が浮かぶ。
なぜか「農業」だった。
人に雇われない、人を雇わない。その土地に根を這うような暮らしができる。
なによりも定年がなく、身体が動く限りは現役。夢を追う事ができる。
もう完全に思いつき。まるで根拠のない決心。
幸か不幸か、その1週間後に松本市で長野県主催の就農相談会が開催されることを偶然知る。
農業のことなど右も左もわからないで参加した相談会。
正直、誰に何を聞いていいすらもわからない。
だから、その気持ちをそのまんま相談官に正直に話した(笑)。
「そりゃ、あんた甘すぎるよ」
まさに当然の答えである。
まず当たり前に勧められたのは農業の勉強。
(普通は勉強してから、考えるべきだと思うのだが・・・・・)
東京に戻り、農業の入門書を3冊購入、連日気合入れて読むものの、
読むほどに眠くなる。
だって、農業の現場なんて一度も見たことがないのだから、文字を追ってもイメージなど浮かぶわけがない!
(じゃ、なんで農業やりたいのさ!?ってね:笑)
じゃ、農業のことを本当に知るにはどうしたらいいのか?
例えば、東京で仕事を続けながら、週に一度の休みに日帰りで、
農家さんの視察にいったとしても、本当に何がわかるのだろうか?
インターネットで情報を収集して、現場の真実の何がわかる?
ならば最前線にいって24時間現場にいって一週間でも過ごす方が、
よっぽど本当のことがわかる。
簡単にでた結論。
僕の答え、それは「現場にいくこと」、出来るだけ最前線に。
3月1日、池袋で行われた「新農人フェア」の長野県のブースに朝一番で向かう。
自分にとっての最前線、長野県の農業研修制度※「新規就農者プロジェクト研修」
の4月からの受講のお願いに。
ただ松本での就農相談会のように正直な動機を説明すると前回と同様に「甘すぎる!」と一括されて終わってしまうので、
とりあえず「考えてるフリ」をするためにネットで知った農業の話をさも考えてきたように話す。
デタラメ戦法というのだろう(笑)。
が、一次面接突破、数日後「新規就農者プロジェクト研修」の本拠地、
長野県小諸市にある、県農業大学校にて、後の恩人のお一人となる初代長野県就農コーディネーターの 石原さん のもとへ面接を受けに向かう。
その数日後もう一度、石原さんの面接を受け、その後3度目、
最後となる面接は3月中旬だった。
農業大学校の校長先生、教科主任の先生、そして石原さんのお三方だった。
いつもと違って、先生方からは手厳しい質問が。
「何も知らないで農業ができるのか?」
「そんなことで大丈夫なのか?」
そして最後に石原さんが先生お二人に「いかがですか?大丈夫ですね?」と。
晴れて研修受講の許可がでた。
東京へ帰り即、社長の元へ退職の意思と今後のことについて話をしに向かう。
そして二週間後に38年間育った街、東京を離れることが決まった。
そして忘れもしない03年4月4日、育った街、東京を初めて後にした。
当日は大雨。
友人二人に引越しを手伝ってもらい、
好きでたまらなかった調布の部屋を空にして、 大きな荷物は多摩の実家へ。
一人用の荷物を乗せたトラックと自分の車で、妻と共に長野県小諸に向かう。
上信越道の八風山を抜けるとなんとそこは予想外の大雪だった。
到着が遅くなって名前とは正反対の作りの(失礼!)近代化センターの寮の部屋にとりあえず荷物を下ろして、その日は佐久平駅前のホテルに泊まる。
雨の中の引越し、予想外の雪とにかく大変な一日でホテルの部屋に入るとホッとした。
しばらくしていると東京での30数年間の思い出などが次々と頭に浮かび、
自分が志したのにも関わらず結果を出せなかった敗北感で涙が止らなくなり、
妻の前で声を出して泣き出す。こんなに泣けるものかと内心、ビックリする。
オレは人生の前半戦は間違いなく敗者だったと・・・・
後半戦は負けるわけにはいかない、涙溢れる中決意した。
※新規就農者プロジェクト研修とは、農業経験のないものがまず農業大学校での座学、
圃場実習、近隣の農家研修を通じて、作物、経営形態、就農場所を選定するための研修制度。
おおむね1年程度である。
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