まったくのど素人からスタートした土肥農園。
音楽に人生をかけていた男が、

すいか1個に情熱を注ぐまでに
なにが起こったのか!
かなりの長文ですが、

その人生が劇的に変わる
ドタバタ模様におつきあいください。

実はここまでは旧土肥農園HPで公開されていた範囲。
これ以後は新HPリニューアルを期に書き加えたものである。
あしたのジョーで言えば、これからは力石の死後、ジョーがカーロスと出会って復活して金竜日を倒して、
パンチドランカーでありながらホセ・メンドーサと死闘を繰り広げる。
もちろん、ここからの話はこれとは全くリンクしない・・・・・
前振りが無駄に長かったようで。

営農開始2年目の2005年以降、営農面では当たり前だが本当にいろいろなことがあった。
個人としては畑一枚全滅を筆頭に様々な失敗を繰り返してきた。
他にも天候不順、長雨や冷夏に見舞われ、産地全体としてボロボロだった年もある。
同じだった年は一度もない。
師匠の百瀬央士さんに「農業は毎年一年生だぞ」と教えをいただいた。
心の底から実感している。
旧HPではこの章を「縁:えにし」として締めくくっているので、
この縁について続編を書いていきたいと思う。

縁というと自分にとって大きな流れが二つある。

二つとも今ある自分に大きな影響を与えている。
自身の営農と同じくらい大切なライフワーク「信州ぷ組」と「サムライ」の活動。
信州ぷ組は後ほどとしてまずは「サムライ」の出会い、そしてその活動。

正式な活動名は「株武会社 サムライ」そしてその後「百姓職人集団 サムライ」と変更、
一次産業の仕事の魅力と夢が叶うこと伝え、
次世代の憧れの職業にしていきたいとの主旨に基づいて活動を行ってきた。
出会いは就農直後の2004年の秋だったかと思う。
同じ研修制度の1期先輩にあたるÝさん(Yさんは有機農業で松本市の就農し、
現在は離農、そのためイニシャル)が「どうやら松本に県外から移住して生きて炭焼き始めて、
それで食べている凄いヤツがいるらしい」と情報をくれた。 「炭焼き?それも専業?県外からの移住?」それだけで十分にインパクトがあった。
そう言っているうちにÝさんから「あの炭焼きの人と会えるよ」と連絡が入った。
「松本のおきな堂って店で待ち合わせをすることになった」
その時の記憶は決して定かではないが、こんな流れで始まったのは間違いないと思う。

そしてこれをきっかけにときどき、時々集まるようになり、
その度にいろいろな話をして随分と盛り上がった。
メンバーは、おきな堂の若旦那の木内さん、美容師から新規就農した矢野さん、Ýさん、
当時も今もよく本業のわからなかった忍ちゃん(あっ、今は二児の母)、
カフェイーストの店主(当時)僚子ちゃん、
夏は水稲栽培、冬は酒蔵勤務の長澤てっちゃん、炭焼き職人の原さん、そして土肥。
何の話をしたかあまり覚えてないが、皆、キャリアは浅かったが、それを上回る熱意に溢れていた。

話の内容は農のこと、食もこと、職人のこと、一次産業のこと。
炭焼きの原さんは当時「ボクは炭焼き職人になった修羅場の修行編&怒涛の独立編」という自身の炭焼き職人として自立するまでのことを書き上げた本を二冊出版して、
その存在が一部で話題になり、炭焼きのオフシーズンには全国から講演会の依頼が殺到していて、僕らの中でも頭一つ抜け出た存在だった。
そしてその勢いで我々は大きな仕事に打って出た。
松本文化会館(現キッセイ文化ホール)大ホール(客席2000人)を借りて、
アルピニスト野口健さんと原伸介の合同講演会「アルピニスト野口健&原伸介・炎の合同講演会:若者よ、夢は仕事になるんだぜ!~感動は現場になる~」を開催、
そして主催することにしたのだ。

“本気で世の中を変えようとするならば現場を引き受ける「プロ」を増やすことが急務である。
この講演を通じて「夢で食べられるんだよ」「現場は楽しいんだよ」
「百姓や職人はかっこいいんだぞ」というメッセージを送り、
一次産業や自然環境を守るプロを目指す若者が増えるきっかけを創ると同時に
大人達には今の社会や価値観を見直すきっかけとしたい”
こんなメッセージと共に開催を目指した。
運営はすべて我々を中心としたボランティア隊を結成して行った。

もちろんスポンサーの獲得や運営の進め方、資金繰りについての主だったところは原さんが担ったが、
それでも素人の寄せ集めでやり抜いた。
ボランティアは当時、産声をあげたSNS,Mixi(ミクシー)を存分に活用した。
動員もスタッフ全員で手分けをして小中学校も回らしてもらってチラシやポスターを置かせていただいた。

最終的には満席には届かなかったが、それでも6割くらいの動員を達成した。
6割入ると、見た目にはある程度、埋まってみえたし、
この運営体制での1000人を超える動員は奇跡に近い出来事だと思う。
これをきっかけに我々は正式に「サムライ」として活動を本格化、
その会員制応援団として「サムライ快援隊」を設けて、
季刊誌発行と月一のサムライメンバーの農産物発送の二本を立ち上げた。

この講演会をきっかけに本当に多くの方とご縁をいただいた。
講演会の打ち上げは今思っても伝説と言っていいくらい盛り上がった。
盛り上がったというより完全に弾けた。
この年齢になって若い時以上に弾けることなんてあるのか?嬉しい驚きだった。

その後もサムライは十五夜に稲刈りとお月見イベントを開催、
お団子も石臼で米粉を引いて手作りで、
また立春に合わせて神社の境内をお借りして餅つき大会を開催してみたりと、
暦や農事を意識した意義あるイベントを開催していった。
しかし、当時、我々はどうあがいたって駆け出しの集団、
どんなかっこいいことを主張して、そしてそれが正論であっても駆け出しであることに変わりがない。

もちろん、その事実を引き受けた上で、同時に結果だせばいいのだ、と進めてきた。
だが、そんな甘いものではなかった。
一部のメンバーがまず本業が立ち行かなくなってきた。
自身の仕事さえも手がまわっていないのに、
サムライの活動に主旨にかなう説得力ある活動が続かないのは明らかだった。

そして会報作成などの業務が一部の人間に集中して負担がかかり、
周りのフォローが回らなくなり、そこで担当を変えても、同じことが起こってしまう。
仮にも快援隊の皆さまからは会費をいただいているのである。

当然、所々不備が発生してクレームも出始めて、一部のメンバー間にも溝が出始めた。
その結果、「サムライ」は道半ばながら08年に活動を休止することになった。
やはり我々は未熟だったのだ。
しかし今思ってもこれは失敗という評価は正当ではないと思う。
僕達は多くのことをここから学んだからだ。

僕自身、この活動を通じて、普通に営農活動しているだけでは出来ない、
経験、そして出会いに恵まれ続けた。
単純に土肥農園のお客様としてお付き合いの続いている方も少なくない。
様々なジャンルの人との出会い、サムライの活動を通じて、少しずつこんな思いが広がっていった。
「経営って、その手法とかよりも、まず“人”の部分が一番ではないか」
人としての魅力から、その農産物や商品の魅力が伝わり、単なるお客と事業者という関係より、
人と人のつながりに発展してお互いに欠かせない関係へと進んでいく。
今、土肥農園が大切に考えているお客様とのつながり方の原点がこの時に作られていった。
だからこそ、経営者としてより、いかに人として魅力ある存在でいられるか。
今も課題は変わらないのである。

「サムライ」と並行して活動を始め、
今も継続中であり自身の営農と同じくらい大切に考えライフワークとなっているのが
新規就農経験者による新規就農者支援団体「信州ぷ組」の活動だ。

僕の研修生時代の2003年7月、研修の一環「先進農家視察」で訪れた長野市のハーブ農家さんでの出来事。
一通り視察を終えた帰り際、視察先農家の奥様から
「今ね、ウチで面白い研修会やっているの。よかったら見に来ませんか?」と声を掛けていただいた。
いただいたチャンスは逃すわけにはいかない。
僕らは遠慮なく研修の同期生と共に聴講に行かせてもらった。
そこで行われていたのが土壌診断の勉強会であった。
数軒の農家さんが参加していたが、
教科書は存在せず各農家さんから提出された土壌検体の分析結果がその日の唯一の資料だ。

土壌診断とは畑の土を分析、各養分を数値で示し、
その各数値から土壌状態の現状を把握することである。
この時に思ったことがある。

研修を開始してから感じた農業技術とは主に経験則で成り立っていた。
例えば農家さんに「この畑で○○という作物を栽培する場合、どの肥料をどの位、入れたらいいですか?」
と質問すると「○○を○○袋くらい入れればいいよ」と。
「どうしてですか?」と質問すると「今までこれでうまくいってきたから」と答えが返ってくる。

ならば初めて借りる畑で初めて栽培を始める僕らはどうやって肥料を選択して、
その投入量を決めればいいのだろう?
農家のご子息なら経験という名の失敗を繰り返しても、親が経営を支え、
まさに経験を積むことが可能である。

しかし僕達、新規就農者は素人から1,2年の研修期間で就農、自ら経営者の看板を背負うこととなり、
もし経験という名の失敗を例え3年ほど繰り返せば、廃業が現実となりかねない。
そんな状況の僕らがこの土壌診断を学び、それを使って土壌の状態を判断する術を覚えたなら、
経験や勘を持ち合わせない僕ら新規就農者でも投入すべき肥料の選択も投入量の把握も十分に可能になる。
経験や勘に頼らない技術を学ぶことが、僕らの進むべき道はこれではないか?と。

この年の12月で研修は修了となるのに合わせて、
土壌診断勉強会の講師;池上洋助さんから
「ならば君たちで勉強会を立ち上げたら」とありがたいご提案をいただいた。
そして2004年1月から月一で「新規就農者土の会」を開始することにした。

これが今の信州ぷ組立ち上げのきっかけである。
「新規就農者土の会」は最初、研修生時代の先輩、後輩、同期生など10名ほどでスタートした。

会を重ねるうちにその10名ほどが新たな研修先や就農先で知り合うことができた、
同じ境遇にある新規就農の同士を連れてくるようになった。
そうやって少しずつネットワークが広がっていった。
それだけではなく経験や勘に頼らず、
真摯に学び続けることで習得可能な科学的根拠に基づいた最先端の農業技術勉強会も増やしていった。
ジャパンバイオファームの小祝政明さんとの出会いも大きかった。
我々が主催する視察会や勉強会に留まらず、
愛知県、山梨県、岐阜県で行われる小祝さんの勉強会、視察会にもお誘いいただき、
幾度となく出かけて行って貴重な学習機会に恵まれた。

そして農業技術を学ぶにおいて決定的な出会いとなったのは、
ぷ組で今も共に活動を続けている当時、有機農業研究機関の研究職だった石綿薫さんとの出会いだろう。
彼とは同じ町内に住んでいたにも関わらず、知り合うのは2006年、SNS上がきっかけだった。

通常、農学の世界は皆、スペシャリストばかりである。
裏を返せば、同じ農学の世界でも研究者は専門外の知識は想像以上に乏しい。
しかし、栽培の現場は土壌だけでも作物だけでもなく、全てが複雑に関連しあって同時進行しているもの。
彼が秀でているのはどのジャンルにしても一定以上の造詣をもち、
それを自然側の視点で全てを関連付けて科学的に検証、
専門家レベルのものを農家の現場レベルに翻訳して説明できる点である。
思考、検証レベルが秀でているのにかつ、それを現場の農家が理解できる現場にそったストーリーで説明できるのだ。
土肥農園の栽培技術において彼の影響は大きいもので、今もそして今後もその力を借り続けるであろう。

話をぷ組に戻すと、当然、彼の影響は大きいものがある。
ちなみに現在、彼は研究職を退き、就農を果たし、農業を生業の軸にそえて奮闘中である。
もちろん、技術指導は退きたくとも、全国から数多くのニーズがあり、継続中である。

「新規就農者土の会」を軸とした勉強会開催活動はこんな流れで広がっていき、
関わってき者同士の繋がりも生まれていった。
新規就農後の厳しい時期に同じ境遇の仲間の存在はお互いにとって、本当に大きな支えになった。
我々はこうやって出会いに恵まれ、何とか歩み続けることができたが、
県内には就農したものの苦戦している者や孤立している者もまだまだいるかも知れない。

加えて、新規就農者の抱えている問題はそれぞれであり、
その困難さを一番理解できるのは同じ経験をしてきた我々新規就農者である。

ならば我々だからこそ可能な支援活動を行っていこうと、2009年4月に「信州ぷ組」(※以後ぷ組)として組織化し、
より本格的な活動を始める。ちなみに信州ぷ組の「ぷ」は何かというと、
僕が就農するため受講した長野県の研修制度「新規就農者プロジェクト研修」からとった「ぷ」である。

世間に存在するこのような勉強会開催を中心とした活動の場合、
ほとんどが行政やJAが事務局を担い、講師選定などの実務を行い、それについての決定機関を農家が担う組織構成だが、ぷ組の特徴は全て自主運営である。
現在でも相当に多彩な活動をしているが完全に自主運営にて活動している。 勉強会を開催するにおいても講師選定、カリキュラムの検討、講師料の交渉、会場の確保、募集活動、
どれもハードルは低くはないが、全て自前で行っている。
ぷ組で大切にしていることは「自立」と「成長」。
会としてスムーズな運営や、外部に向けて結果を残すことに全く価値を見出していない。
むしろドタバタすべきだし、もめても構わない。
大切なのは「経過」。そこで一人一人がその活動を通じて自身と向きあい、何をしたいのか、何のためにしているのかを考えること。
そしてその経験を通じて成長していく。
組員が成長を遂げるならぷ組はどうあっても構わない、
だからこそ逆に組員はぷ組のことを大切に考えてくれている。

経営にも栽培にも答えはありません。
ぷ組が企画する勉強会は講師の指導した答をゴールとして学ぶのでなく、
それをツールとしていかにして自身の答を創り上げるか、のための勉強会である。
そしてその自己実現が地域のため後進のため、そして農業界のためになるような人材育成の場になればいい。
僕にとってはぷ組の活動は自身の営農活動と同じくらい大切な活動なのである。


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